幸福になれない幸福の科学教団
【ダブルバインド(Double bind)とは】
旅人コメント
★「幸福の科学」撲滅対策相談室★にアルゴラブさんが投稿された記事の編集版です。
幸福の科学の引き起こしている事象を表面上のみで追いかけても、その本質を捉えることは出来ません。より穿ち入った観点から切り崩す必要性があると思い、価値ある投稿などを転載していけたらと考えています。既存のブログがいくつかありますが、それらとは別に運営していく予定です。
幸福の科学という宗教の本質が、いかに人間性の健全な発達を妨げて破壊する、危険なカルトであるかということを、教団の信者支配の構図から信者自身の精神構造に貫かれる、ひとつのキーワードによって解明していきます。
それを『ダブルバインド(Double bind)』と言います。
ダブルバインドとは、グレゴリー・ベイトソン(文化人類学・精神医学)が、統合失調症(旧称:精神分裂病)の解明のため、多くの患者の家庭を調査していく過程で発見した、患者を生む環境に共通して見られた独特のコミュニケーションパターンとして提唱したものです。
日本語に訳すと、「二重拘束」とか「二重呪縛」などと表現されますが、この二重に縛るというのは、発信者から2つの相反する矛盾した命令(メッセージ)を送られて、受信者はその矛盾への指摘や反論ができず(許されず)に、強い緊張状態の中へ習慣的に置かれることで精神を不安定にされ、結果として身動きが取れなくなった受信者が、自己の内心とは裏腹な発信者の意志へと次第に支配されていく状況を指しています。
精神に病因的外傷(トラウマ)を与えることになる、この否定的ダブルバインドのセオリーは、展開すると大きく3段階の命令によって構成されています。
①第一次的な禁止命令
②第一次の禁止命令と矛盾する第二次的な禁止命令
③状況からの逃避を禁止する第三次の禁止命令
この概念だけではなかなか分かりづらいので、ベイトソンの理論が患者の家庭環境への調査結果の集積によるものであることから、まず身近な親子関係という状況から具体例をあげてみましょう。
*メッセージの「発信者」と「受信者」という言い回しをしましたが、ダブルバインドが受け手の反論や陳情を禁じた拘束であることから、以降は「支配者」と「犠牲者」という見方で追って下さい。
「①第一次的な禁止命令」で、支配者の「言うことを聞かないこと」を禁じる。
『私の言うとおりにしていなさい。でないと罰としてこうしますよ』
『私の言うことを聞かないから言った通り失敗するのです』
『私の言うことを聞かないのなら、もう知りませんからね』
「②第一次の禁止命令と矛盾する第二次的な禁止命令」で支配者への「異議を唱えること」を禁じる。
第二次の禁止令は、第一次の禁止令とは論理階型の水準が異なる、一次のどの要素にも衝突する要素をもった抽象的なレベルのメッセージで、通常は物に当たってみせたりするポーズや、ため息など意味深な動作といった「ほのめかし」によって伝えられることが多いです。極端に言えば、親が子供に「おいで」と促しながら、子供が近寄ると逆に突き飛ばしたり、呼ばれて無視すれば怒られ、近寄っても拒絶されるなどといった、言葉と行動が異なる二重基準に基づく非言語的手段であり、論理階型が異なるためその矛盾を理解しづらいものです。
あえて言語的に表すとすれば以下のようなセリフなどが考えられます。
『こんな厳しいこというのも、全てあなたのためなのです』
『あなたにこんな事を言ってあげられるのは、私だけですよ』
『良い子だから分かるでしょ』
禁止令といっても激しい強制ばかりとは限りません。こうして一見は本人のためなどと言いつつ、じわじわと真綿で絞めつけるように身動きを取れなくしていくパターンもあります。
いかに矛盾した命令であろうと同一の論理階型に属するものであれば、そのような状況に持続的に晒されたところで、いずれ矛盾は認識され、コミュニケーション能力が病的に損なわれる事態にまで至ることは通常考えにくいですが、こうした二つの命令の論理階型が異なるダブルバインドのコミュニケーションパターンを継続的に受け続けると、やがて他のコミュニケーションにおいても、自覚がないままダブルバインドと同様のパターンで知覚することが常態化してしまい、それが統合失調症の症状として表れることになります。
「③状況からの逃避を禁止する第三次の禁止命令」で犠牲者が支配者から「逃れること」を禁じます。
『何だかんだ言っても親子なのだから』
『親に食べさせてもらっている身分なのだから』
『家を出て、あなたひとりでやっていけないでしょう』
この状況の中では、子供はどう答えたところで罰しかありません。どう言っても叱られることが分かっている時、子供は絶句するしかなくなります。
そして、逃げることもできずに、親との間には強く絶対的な権力の壁ができて、子は学習性無力感に陥って思考力の成長を妨げられ、緊張状態から精神を不安定にして他者との正常な対応ができないような状態になったり、或いは表だって反抗することもなく、うわべは感情抑制をきかせて穏便な良い子のようでいて、反面で依存的で主体性に欠け、何より内面に激しい抑圧された怒りを抱える複雑なAC(アダプティッド・チャイルド)の性格を形成させる場合もあります。
ダブルバインドの根底には、支配者による犠牲者の囲い込みと支配という欲求が隠されています。こうした状況が起こるのは、まず支配者たろうとする親の精神に、もともと存在不安や愛情の飢餓があるゆえで、閉鎖的な環境の中で親子未分離の共依存の関係にあります。
この共依存の中にある親にとって、子供は自己の存在確認のための道具です。過干渉、また時には逆に心理的ネグレクトなども行って、徹底した強迫観念の植え付けによる依存心の持続的コントロールを仕掛けて、常に子供に自分の存在をすり込み、その反応で自己の存在を確認しているのです。
また存在不安のある親は、自分の不安材料の発生を嫌って子供も同じレールに乗せようとします。そうすることが親の愛情で子供を幸せに導くことと信じきり、子供に失敗させないことが善とばかりに大手を振って我が子の人生にことごとく介入し、支配を強めていきます。
子供がこの支配を窮屈に感じ、その矛盾を指摘したり無視するなどして逃れようとしても、それが「愛情のない親」という非難としてしか受け止められない親は、子供を罰するか、「お前の考えは歪んでいる」などと押し付けて、子供に対してあくまで反抗を禁止し続けるでしょう。それはとりもなおさず、実は「子供を愛しているわけではないこと」を自分自身が意識することを禁じようとする自縛があるからです。
親に対する思慕の情と、道具にされた怒りの間で葛藤し、逃れようのない先の見えぬ強いストレス状況に晒され、常にコントロールされてがんじがらめになっているうちに、悪くすれば自分の気持ちと行動が乖離して自己の統合性が失われ、やがて「言葉」と「行動」がバラバラな人間が現れます。
そして親からの自我侵食を防ぎきれぬまま成長した子供は、今度は自分の行為が他人の自我を侵食していくことに気付くことができないまま、このダブルバインドが世代間連鎖していくことになってしまうのです。
親子関係を引き合いに出して、まずダブルバインドの構造を見て頂いたのは、それが身近な例で、この理論の成立過程であったことばかりでなく、幸福の科学の問題として、信者の家庭環境でも多く見られる事象ではないかと思われたからです。二世、三世の世代の方で、こうした状況に苦しんできた方は少なくないのではないでしょうか。今それを冷静に振り返れているとしたら、不幸中の幸いにもその状況から逃れられる何らかのきっかけに恵まれていたからでしょう。
たとえ家庭の中におけるダブルバインドでも、相手に与える影響の深刻さからして、モラル・ハラスメント(精神的暴力)に違いなく、私はそれを「虐待」であると考えます。ただし、厄介なことに当事者はそれを無自覚に行っていることがほとんどで、知らずにダブルバインドを行った挙句、子供に問題が出てはじめて狼狽するのです。
しかし原因が分かりません。
ここからが幸福の科学に身を置く者の場合のさらに困ったところで、その救済を教団に求めようとして結果的に傷口を広げてしまうのです。自らが支配者という加害者になってしまった原因が、他ならぬ自らが犠牲者となっている教団の環境ゆえであるのに、自身や自分の家庭環境が教団と連なったダブルバインドの連鎖の中に取り込まれていることが認識できていません。
親子関係に限らず会社や学校でも、メタコミュニケーション(相互を冷静に俯瞰して捉えなおすコミュニケーション)がしづらい、または禁止されるところではどこでもダブルバインドに陥りやすい状況にあり、程度の差こそあれ、ダブルバインドの支配者、すなわちモラル・ハラスメントの加害者とカルト教祖(=大川隆法)とに共通する「自己愛的な変質者」という特徴から、カルト宗教団体における教祖と信者の関係が、自ずとその最たるものとなってくることを暗示しています。
このモラハラの加害者、ダブルバインドの支配者の特徴である「自己愛的な変質者」というのは、「自己愛の病理学」(オットー・カンバーグ)での「自己愛的な人格」に極めて明解に表されています。
「自己愛的な人格の特徴をあげると、自分が偉大だという感覚を持ち、極端に自己中心的で、自分は賞賛や賛辞を求めるのに、他人に対してはまったく共感することができない。この人格の人々は自分が持っていないものを持っている人を見たり、あるいは単に人生から喜びを引きだしていたりする人を見ると、激しい羨望を感じる。また、情が薄く、他人の複雑な感情を理解できないばかりでなく、自分自身の感情も状況に応じた形でわき上がってこない。感情は炎のようにきらめいたかと思うと、すぐに消えてしまうのだ。とりわけ悲しみや喪の感情は味わったことがない。これがこの人格の基本的な特徴のひとつである。確かに誰かに見捨てられたり、失望させられたりすると、この人格の人々は表面的には悲しんでいるように見える。だが、注意深く見れば、それは復讐の気持ちをともなった怒りや恨みで、大切な人間を失った悲しみではまったくないのだ。」
そして、精神病の国際分類マニュアルである「精神疾患の診断と統計マニュアル第4版(DSM-Ⅳ)」に、「自己愛的な人格についての項目」というものがあり、このうち5つ以上当てはまれば自己愛性人格障害であると診断されています。
①自分が偉くて、重要人物だと思っている。
②自分が成功したり、権力を持ったりできるという幻想をもち、その幻想に限度がない。
③自分が「特別な」存在だと思っている。
④いつも他人の賞賛を必要としている。
⑤全てが自分のおかげだと思っている。
⑥人間関係の中で相手を利用することしか考えない。
⑦他人に共感することができない。
⑧他人を羨望することが多い。
カルト宗教・幸福の科学の教祖である大川隆法のような強度に病的なナルシスト、典型的な「自己愛的な変質者」というのは、実質的にはその中身は空っぽで実体がありません。自己愛的な変質者は慢性的な限りない愛情の飢餓状態にあり、しかしそれは他者の存在によってしか満たされることがないことから、自分が生きて行くためには絶えず他人と繋がっていなければなりません。実体を持たないこうしたナルシストというのは、他人という鏡に映った自己像だけで成り立っているからです。
そして他者は鏡に映る自分自身なのですから、あくまで理想的であり続けなければなりません。そのために支配が生じてきます。
支配者にとっての鏡である相手に、ナルシズムを歪める自分の欠点が映るようであってはならず、自己認知を満たすための関係を維持していくには、それを脅かしかねない相手のアイデンティティーを破壊して我がものとし、服従させ、依存させて、自分の言うことだけを聞くように自己と一体化させてしまわなければならない必要性があります。相手の意見や意向を認めず、知的、精神的に服従させて支配下におく、この支配と服従の関係によって、支配者は犠牲者から無限の自己肯定を求めようとするのです。
世間一般からすると、大川隆法のようなカルトの教祖に追随する人もまた、大川に共鳴するだけの病的な要素を持っていた人と見られがちです。現在の教団の派手なカルトぶりからすれば、元からそうした気質の人が引き寄せられたものと思われるのは無理もありませんし、個々には確かにそうした人もいるであろうことは否定できませんが、それはあくまで部分であって、この支配と服従の構図を把握せずに大雑把な結論を与えてしまっては、カルト問題の本質的理解には至らないと思います。単に頭のおかしな人というレッテルで括ってしまっては、入信する以前の個々の人物を知る人からすれば、その人間性の劣化や豹変の理由が分かりません。また、たまたま親や親族に信者をもった二世、三世についての説明がつきません。
このような支配に万人が侵されることはないにしても、ダブルバインドの支配者(モラハラの加害者)に共通する特徴があるように、自己愛的な変質者の絡め手の犠牲者にも一定の傾向性があるのです。
その犠牲者の特性は、ドイツの精神科医テレンバッハが提唱した「メランコリー親和型」というタイプに合致しています。
このタイプの人はうつ病になりやすい傾向があるとの指摘から、精神病理学の分野で定義されたものですが、それは必ずしも特殊に病理的な性格というのではなく、少なくとも日本においては真面目人間の典型として模範とされてきた人格的傾向を指しています。
このタイプの人は、「真面目で几帳面、秩序を尊び、責任感が強く、他人に非常に気を遣い、頼まれたら嫌といえない」といった性格で、要するにいわゆる「いい人」「お人好し」な部類です。
そして「~せねばならない」とか「~であるべき」いう厳しい内的規範も持っていて、そうした自分の要求を達せられないと必要以上に思いつめて自分自身を責めるという、自罰的で罪の意識が強い傾向もあります。
こうした「メランコリー親和型」タイプの人は、実体のないゆえ決して満たされることのないナルシズムを、それでも満たすために絶え間なく他者の愛を啜(すす)り続ける「自己愛的な変質者」の支配者にとって大変都合のいい恰好の餌食なのです。
犠牲者となるメランコリー親和型タイプの人にとっての人間関係が、もともと「他人のために尽くす」というスタンスで、他人に奉仕し喜ばせるという行為によって満たされていく面があります。この傾向が過剰なまでに強い場合、それが他者からの承認欲求となっている一方、常に自己認知を欲する支配者側の形成しようとする人間関係が、自己を映す鏡としての他人をひたすら「自己認知に役立つようにコントロール(利用)する」というものであることから、不幸にも共鳴してしまいます。
自己愛的な変質者の支配者は、自分に好意を持ち良いイメージを抱いてくれる相手に、嘘をついたり現実を歪めたりして、相手も気付かぬ内に心に侵入してきます。
そして大概、初めは不幸な人間として現れます。支配者自身が自分に魅力があると思いたいがために、不遇な子供時代を過ごしたとか、才能を認められなかったとか、我が身の不遇を匂わせて相手を惹きつけようとします。大川隆法の「平凡からの出発」や、初期の「太陽の法」での自分語り、また90年の5月研修での「泣き落とし」などがズバリそれです。
この相手を惹きつけるというのは、いずれ相手が自分から離れられなくなるように依存させるための手掛かりで、自分の方は相手に関心がないから惹きつけられることもなく、従って関係はあくまで一方的です。
自己愛的な変質者にとって、他者は一個の存在でも自らの分身である必要もなく、助言も忠告もなく、ただひたすら自分に追随してナルシズムを満足させてくれれば良いだけの、もはや人間ではなく単なる道具でしかありませんから、自他の区別など曖昧で構わず、自ずと一方的に相手の自我に侵食していく構図になります。
大川隆法で言えば、その自他一体の境地が、自己を滅却してのそれではなく、自分のために信者の自我を破壊して成す自他一体ということです。
支配者は、当初こうして犠牲者に同情にも似た共感の気持ちを起こさせ、その性質をくすぐって自分への同意を引き出します。しかしその支配が強化されてくるにしたがって、今度は次第に恐怖によって従わせるようになっていきます。
その時に支配者は、理性に訴えることや論理で説得する形はとりません。犠牲者の感情や弱い部分をついてコントロールし、自分の影響を無理矢理受け入れさせていきます。犠牲者は、最初惹かれて受け入れたための「一貫性」や「返報性」といった「負い目」から、巧妙な心理操作に騙され抑圧されて、主体性を奪われて自由に行動することができなくなるのです。
そして自分が心理的に侵入を受け自由を奪われているとは自覚できずに、自らが望まぬ本来的な考え方や行動とは違うことでも自発的に選択したと思い込むようになり、やがてその経緯を考えることすらできなくなるほどに、心理的束縛が批判的精神や抵抗をする力を失わせて、元々の人格を衰弱させる方向へ向かいます。
むろん犠牲者とて、黙って成すがままにされているわけではなく、強いストレス状況の中で必死に葛藤します。
ただ、当初は惹かれて受け入れたという部分で、既に支配者の影響力によって行動するマインドが出来上がってしまっていることが、ことごとく判断を歪めてしまうのです。
支配者から自我への侵入をはかられている犠牲者の心中では、まず激しい「ストレスコーピング」が行われます。「ストレスコーピング」とは、慢性的で過剰なストレスによる心身への悪影響から身を守り、混乱した心理状態から抜け出すための、異常な状態に対する正常な反応として、自ら積極的にストレスをもたらす要因や感情に働きかけて、ストレスを除去したり緩和しようとする大切なプロセスです。
ストレッサー(ストレスの原因)に直接働きかけて、それ自体を変化させることで問題解決を図ろうとする「問題焦点コーピング」と、ストレッサーに対する自分の考え方や感じ方を変化させることで問題解決を図ろうとする「情動焦点コーピング」とに大別されますが、ストレッサーが自己愛的な変質者の大川隆法のようなカルト教祖であれば、選択肢は情動焦点型しかありませんから、犠牲者はなんとか自分の中で消化しようと、ひたすら考えあぐねることになります。
また、コーピングの傍らで、無意識に「防衛機制」も働きます。防衛機制とは、不快な感情や体験の認識を、自分の中で弱めたり遠ざけたりして、安定した心の状態を保てるようにしようとする心理的な作用のことで、様々なパターンがありますが、例えば「臭い物に蓋」といった、嫌な記憶や体験を、我慢して無意識の中に押し込み無かったことにしてしまおうとするような「抑圧」や、良くある話だとか、来るべき時が来れば報われるはずなどと理屈付ける「合理化」などがありがちでしょう。
この防衛機制自体は、必ずしも特別でない正常な心理的作用ですが、けれどもこれが常習的に行われていると、病的な不適応症状として表面化してくる場合があります。
犠牲者はこうした防衛機制で自我を守りつつ、ストレッサーを脅威と判断する「認知的評価」と、あれこれコーピングを繰り返す、行ったり来たりの初期段階の「警告反応期」を過ぎて、なおストレスの高原状態が続く「抵抗期」の後に、結局どんなコーピングも無駄だと諦める「疲弊期」に至ります。この段階になると、疲労困憊した犠牲者の心身に何らかのショック症状が表れてきます。伝道や植福の報告期限が迫ると電話の着信音に震えたり、支部が近づくと息苦しくなったり、訳もなく泣けてくるといった経験も、この症状と言えるでしょう。
ここでこの状況から自ら逃れてしまえば良いのですが、いつも相手の欲求を優先させるばかりで、自分の欲求に無自覚で、人に拒否されることを嫌って、ほとんど自分の主張を通せないような、自分を犠牲にしてでも他人に尽くそうとするメランコリー親和型タイプの人は、当然のごとく「100%自分が絶対正しい」という態度の自己愛的な変質者を前にして、どうしても「自分に原因(非)があるのでは」と受け止めてしまうのです。
何かよくない出来事が起こった時、自分の意思とは無関係にすぐ「自分に原因(非)がある」と、全て自分の責任としてしまう「自己関連づけ(個人化)」の自動思考は、圧倒的な支配環境下において、「自分はダメ人間」という「レッテル貼り」に移行します。
本来であれば出来事に対して解決策を探ることが自然であるのに、自己関連づけの思考パターンが習慣化すると、罪の意識ばかり強くなって、その結果として自己評価が低下し、さらなるストレス状態に蝕まれていきます。
こうした「レッテル貼り」によってできた「自己概念」が固着してしまうと、それ以降は常にその枠組みの中で物事を解釈しようとしますから、その概念が限りなく強化されるという悪循環に陥って、何があっても結局「自分がいけないのだ」という観念から抜け出せなくなります。
『私が間違っているのかも知れない』
『私の信仰心が足りないからだ』
『私には分からないが、先生には深いお考えがあるに違いない』
おそらく誰もが通過した、このような思いは、こうしたプロセスによって生み出されてきたものです。教祖や教団にとって、信者をこうした存在不安に至らしめることは、自らへの依存度を高めるために不可欠な心理操作なのです。
ここまでくると、支配環境からの独力での離脱はなかなか困難になってきます。
こうして相手を惹きつけて自由を奪いながら影響を与え、精神的に不安定にさせて徐々に自信を失わせて、相手から物を考える力を奪って支配下におくことを「愚鈍化」と言います。もともと一定の秩序に従っていることで安心感を得ていた側面を持つ犠牲者にとって、思考停止して、支配者の影響に奴隷の如く身を任せる安心に変質したと言って良いかも知れません。
こうした長期に渡る強制的な説得による支配関係は、まさしく洗脳のように相手の精神の自由を奪って自我の統合性を失わせ、人格の解離を引き起こさせて、犠牲者を精神障害にまで追い込むことがあります。
カルト宗教というのは、教祖と信者の共依存の関係の中で、教祖自身が自己認知に利用するための道具として、信者を愚鈍化して教祖の劣化コピーを大量生産する、まさしく「サティアン」です。その個人崇拝を特徴とした信仰も、所詮はそのため手段に過ぎませんから、都合によっていかにコロコロ変わろうとも、そうした彼らにとっては一向に構わない事になります。
かつての善き人が失われた、まともな話が通じず、攻撃的で人間性がマンガ化した信者たち。そうした気質(病質)は、長い信者としての環境、教団による「しつけ」の作用によって出来上がるものです。長く浸かっているうちに、いつの間にかそれが当たり前だと思い込み、無自覚なまま、いつしか自分が加害者の側に立つようになってしまいます。
もともと教団と関りのない方々には、なかなか実感できないことかと思いますが、脱会者やお身内に信者を持つ方々は思い越してみて下さい。私にも思い当たる昔懐かしい面影が何人か浮かんできます。しかし、昔の面影を残していたとしても、同じなのは外見だけで、中身はまったくの別人に成り果てています。情の部分で、このことをくれぐれも甘く考えないで頂きたいと思います。でなければ対処を誤ることになりかねません。
家庭のような環境でのダブルバインドでは、支配者側も無意識に行っている面が強いことから、ダブルバインドも、いわゆるマインドコントロールのレベルであると考えられますが、宗教団体が行う場合などは、背景に信者の獲得と支配という下世話な目的が横たわっており、一歩進んだ洗脳のレベルの、悪質な「人権侵害」と認識すべきです。
そしてカルト宗教「幸福の科学」の根幹には、そのえげつないダブルバインドの仕掛けが、あからさまにハッキリと存在しています。
①言うことを聞かないことを禁じる、第一次的な禁止命令。
『和合僧破壊の罪』
「仏陀再誕」や「仏陀の証明」など、教団内において初期から信者に対し繰り返し擦り込まれている戒律で、仏神を疑う心、人間の中にある仏の心、仏性を疑う心、真理を疑う心を「疑」とし、悪魔に通じる心として、徹底して恐れと罪の意識を植えつけます。
仏を疑う心は魂を否定すること、自分たちの全存在を否定する、魂を殺すことと同義として、仏を疑うことは許されないと定めています。
悪魔の囁き「疑」の心は、光を闇に、正人を狂人に、全てを正反対の真逆に見せるというのですから、これでは疑念の質に関りなく、いったん大川を受け入れたからには、端から教祖や教団への批判が成立する余地はありませんし、外部からの批判に対しても、内集団バイアスも働いて、無条件に悪魔の仕業という認識でしか処理されません。
②異議を唱えることを禁じる、第二次的な禁止命令。
良心も理性も常識もかなぐり捨てて、子供、大人の区別なく盲目的な100%の信仰という服従を要求する、カルト宣言そのものがあります。
『証明する気などありません 。ただ信じなさい。ただついて来なさい 。私について来なさい。』(「君よ、涙の谷を渡れ」より)
『私よりも父や母を信じ愛する者、私よりもあなたの夫や妻を信じ愛する者、私よりもあなたの子供やあなたの友達や、知り合いや友人や先生を信じ愛する者、あなたがたには光の天使になる資格はない。』(「純粋な信仰」より)
③逃れることを禁じる、第三次的な禁止命令。
そして教団の根本経典にある『新版 正心法語⑦正義の言葉[仏説・降魔経]』によって、教団のダブルバインドは完成し、これを日々唱えることで信者の洗脳は強化されます。
『仏法流布を妨ぐる 悪魔はこれを許すまじ
仏・法・僧への中傷は 極悪非道の所業なり
もはや人間として生まれるは これが最後と悟るべし
この世のいかなる大罪も 三宝誹謗に如くはなし
和合僧破壊の罪は 阿鼻叫喚堕地獄への道 避け難し
仏陀はこの世の光なり しかして宇宙の生命なり
宇宙の叡智に刃向かいて 逃るるすべはなかりけり』
こうした幸福の科学の教義に織り込まれたダブルバインドが、教団の闇の文化である「打ち込み」を生んだ背景にもなっています。
ダブルバインドというのは、人を思い通りに操る手段として、相手を反論も許されない緊張状態に追い込み、例えば「必ず事前に相談しろ」と命じておいて、指示通りに応えると「そんなことも判断できないのか」という様な、結局「どちらに転んでも罰せられる」状態に置きながら行動支配を強めていくものです。
ある日突然自宅へ押し掛けたり、または教団の一室に連れ込むなど「外部隔離」し、複数の職員や幹部信者による執拗な「尋問」によって、延々と「自己批判」をさせて「罪の意識の植付け」を行い、時には私物を荒らしたり、降格左遷の予告など「処罰・暴力」を印象付けた後、教団の主義思想を叩き込む「徹底教化」によって主体的判断を奪って思考停止させ、その上で「巧妙な賞罰」に安住させて意のままに動く奴隷へと調教するという、カルト宗教幸福の科学の「打ち込み」という人格改造の洗脳手法は、たとえ直接身体に危害を加えていなかったとしても、相手の人格を破壊して精神に外傷を負わせる、それこそ魂を死に追いやる人道上けっして許されざる明らかな暴力です。
しかし、幸福の科学では、こうした行為が罪とは認識されません。このような非道でもまかり通ってしまう素地があるからです。
第一次的な禁止命令として挙げた「和合僧破壊の罪」に、その理由があります。大川隆法の「仏陀再誕」の中で「和合僧破壊の罪」について以下のようにあります。
「この罪より逃るるは難し
この罪、ひじょうに大きな罪にて
たとい殺人、強盗、暴行を犯すとも、これほどの罪にはならず
殺人を犯しても、これは地上の人間の魂を、肉体から遊離させるにすぎず
暴行もまた、地上の人間に、肉体の傷みを起こさせる程度にしかすぎない」
「和合僧破壊の罪」が問答無用の大悪行であることに対し、殺人や暴行といった本来この上があるべきでないタブーが相対的に下げられています。こうして幸福の科学信者の最大最高の罪が「和合僧破壊の罪」と規定されることで、信者のマインドでは、文字通り殺人も暴行もワーストワンではなくなります。
教祖はこの戒律を盾に、実質的に自らへの批判詮索を全て封じ、絶対的禁忌そのものを掌握したことによって、信者に対しその他のタブーもコントロールできる立場に立ちます。こうした状況は、信者が教祖への服従を深めるほど、教祖や教団への批判は理由の如何を問わず無条件に罪だが、同時にそれ以外のタブーは条件によっては破っても許されるという余地を与えるものです。
人も普通の環境で成長すれば、タブーの優先順位を間違えることはないと思いますが、そこは社会通念とはかけ離れた、屈折した価値観が過度に強調されるカルト宗教団体であって、現在の教団内に散見される様々な人間関係の乱れを見てとっても、それが大川の条件付けによって信者の欲求がむき出しになった証として、タブー設定に潜む問題が、信者のモラルの低下を起こさせた表れと言えるでしょう。
かつてオウム真理教は、麻原や教団を批判し、活動を阻止する者を「悪業を積む者」とし、そのまま生かしておいては、さらに悪業を積み来世で苦しむことになるから、それを避けるために一刻も早くその生命を絶ち、「グルとの逆縁」を与えることが魂を救済することであり、弟子の功徳と称して、オウムの解釈による「ポア」の思想で殺人を正当化し、オウムの解釈による「ヴァジラヤーナ」の思想で武力介入によるオウムを主とする社会秩序の形成を目論みました。
あくまで宗教的信条の内で済まされることではありません。批判者を悪魔としか考えず、ことさら戦争を熱望する幸福の科学の教祖や信者の様相は、この時のオウム真理教の状況と本質的に何ら違いはありません。
選挙の大敗以降、教祖夫婦の離婚や再婚、その背景にあった愛人の実在。嘲笑の的でしかないイタコ芸と、その中での数々の問題発言。その間、多くの方々がようやく目を覚まし、教団を離脱していきましたが、これだけの言行不一致や不合理、愚行を目の当たりにしても、認知的不協和を呑み込んできた現存信者の知的、精神的崩壊具合は、相当に深刻なレベルであると思います。
ここまで倫理観の違う者たちと、一般社会との共存はもはや不可能でありましょう。彼らは宗教を隠れ蓑にした暴力団のようなものです。オウム真理教で大量無差別殺人に走った信者たちも、幸福の科学の現存信者や職員も、初めから根っからの悪人ではありませんでした。カルト教義の洗脳と内部の同調圧力によって、人間性を徐々に破壊させられていったのです。
ダブルバインドによる支配というのは、徹底的に罰を与えて反抗心を喪失させることが真の目的で、要は「人間をやめて自分の命令通りに動くロボットになれ」と言っているのです。ただし、そのような非道徳なことは言えませんから、そのための都合の良い手法が教祖への「信仰」というわけです。
これから先、カルト幸福の科学の諸問題と対峙して行く時、人格障害や精神疾患についての基本的知識は、支配者や犠牲者について知るために重要な手掛かりであり、その認識を深めていくことは必須の課題です。
統合失調症の原因の全てが「ダブルバインド」というわけではありませんが、統合失調症患者の家庭環境に共通した状況であったことから、遺伝的素因より、環境要因が大きいものと考えられます。従って、幸福の科学信者のような支配環境に置かれ続けていれば、誰もが統合失調症になる可能性がありえます。
ダブルバインドの犠牲者は、一方的に支配者の感情や言い分を受け入れざるを得ない立場に押し込められて、自分の思いを抑圧し、思い通りに行動することができず、常に支配者の影響にコントロールされているため、次第に感情と行動が乖離して、「自分が自分でない感じ」、自分が何者かによって操られている奇妙な感覚に襲われるようになります。
この「乖離感」は、自己の統合性が失われていく統合失調症の前駆症状で、これが進むと論理階型の識別能力に支障をきたして、他者との正常な対応が出来なくなり、それが支配されているためだと分からないまま、最悪行きつくところ、思考停止に陥って操り人形のごとくに、本来の人間性を失ったロボットと化をして、結果的に信者は教祖の言いなりのまま、反社会的活動でさえも平然と行うようになるのです。
反対に、脱会しても今なお辛い精神的後遺症に苦しんでいらっしゃる方もおられるかと思いますが、そういう皆さんは、そうしたロボット化を拒む人間として心を、最後の最後で守ることができたからと言うことができます。人間をやめたら、もうそうした苦しみすらありませんから。
このダブルバインドから逃れる方法はただ一つ。 支配者(教祖)から逃げることです。 これ以外にはありません。
しかしその前に、もうひとつの呪縛を解く必要があります。それは自分で自分にかけたセルフコントロールを解除するということです。これは考えている以上に大切なことです。
教団は信者の洗脳状態を維持するために、日頃から教祖の言行や教団の方針に対して疑問を挟まないよう躾けています。そのような疑念は悪魔の誘惑とされて、阿鼻叫喚地獄への道との擦り込みから、信者は考えること自体を恐れて教団の教典を繰り返し唱え、自分の思いに無理矢理蓋をするようになります。こうしたことの習慣化が、教祖からの支配とは別の、自分で自分にかける呪縛となって、他者から教祖について合理的な批判を受けても、考えること自体の恐れから、急に喚いて怒り出したり、あるいは表情を凍らせて黙りこむなど、まったく聞く耳を示さずにコミュニケーションが成り立たない状態になります。
そればかりか、批判者は悪魔と植え付けられ、強度な自縛になっている状況では、せっかく説得しようとしても、その直接的な批判が却って洗脳や教団への帰属を悪化させることになりかねません。いかにカルト宗教と謂えども、現時点ではその教団に対して精神的に依存している以上は、洗脳状態にある信者としては当然の反応と考えられます。
ですので、個々の信者への脱会支援という観点からは、まずそのセルフコントロールを解いてあげる必要があります。信者が過剰な拒否反応を示さないで済むよう、頭ごなしの直接的な批判は抑えて、それ以外の当り障りのない無難な対話から根本的な人間関係を構築し、徐々に教団中心の生活から普通の日常へと物理的に引き戻しながら、日常生活の諸活動を通じて、その歪な自己規制のおかしさを本人自身に気付かせることが大事です。
また、価値観の再構築は、断じて再洗脳であってはならないと思います。カルトに属した期間と同じくらいの時間が必要になることもありますが、慌てずに、素朴な矛盾を指摘しながら、本人の考える力を蘇らせていくしかありません。
そして、相手がそうした時期に至ったと見えたら、自分の内側に意識を向けるように導いてあげると良いと思います。
ただし内側に意識などと言って、くれぐれも霊道修行と勘違いさせないで下さい。それでは元の木阿弥です。これは「自分研究(当事者研究)」といって、この状況であれば、日常生活の中で自分が内なる声に従っているのか、それとも外部から誘導されているのかを観察することです。
世や人生の意味を探って、自己の外側に答えを求めた結果、自らを疎かにしてカルトの罠に落ちたのです。そこには何の真実もなかったはずです。
答えは自らの内に求めるべきです。自分から逃げず、自分自身とトコトンと向き合い、今度こそ自燈明を灯すのです。
※参考文献紹介(敬称略)
「マインド・コントロール」(紀藤正樹)
「あなたの子どもを加害者にしないために」(中尾英司)
「モラル・ハラスメント」(マリーフランス・イルゴイエンヌ)
「精神の生態学」(グレゴリー・ベイトソン)
「メランコリー」(フーベルトゥス・テレンバッハ)